女優の広瀬すずさんが、来春放送予定の特別ドラマで、津田塾大学の創設者として知られる女子
教育のパイオニアで、2024年から発行される新紙幣で5000円札に描かれる津田梅子さんを演じることになりました。
5000円札って新しくなるんですね。知りませんでした。
現在の5000円札は確か、樋口一葉さんでしたね。樋口さんと言えば、日本を代表する小説家です。
代表作では「たけくらべ」が有名ですね。
その樋口一葉さんに代わって津田梅子さんが新5000円札に描かれるということで、津田梅子さんとは何をした人なのか調べてみました。
津田梅子さんの偉業は津田塾大学を創設したこと

旧友との再会(左端が津田梅子さん)
津田梅子さんは、日本における女子教育の先駆者と評価され、女子英學塾(のちの津田塾大学)を創設しました。
津田梅子さんは、大学からはアメリカへ留まり学究を続けることを薦められますが、明治25年(1892年)8月に帰国し、再び華族女学校に勤めます。
津田梅子さんは教師生活を続けますが、自宅で女学生を預かるなど積極的援助を行い、明治27年(1894年)には明治女学院でも講師を務めます。
明治32年(1899年)に高等女学校令、私立学校令がそれぞれ公布されて法整備が整い、女子教育への機運が高まると、明治33年(1900年)に官職を辞すると、父の仙やアリス・ベーコンら
の協力者の助けを得て、同年7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府知事に提出します。
認可を受けると東京麹町区に開校し(1909年9月14日開校式)、塾長となり、華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を始めます。
女子英学塾は、それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となりました。
ただし、当初はあまりの厳しさから脱落者が相次いだといいます。
その後、1905年10月17日、津田梅子を会長として日本基督教女子青年会(YWCA)が創立されました。
しかし、津田梅子さんは塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整うと大正8年(1919年)1月に塾長を辞任します。
そして、鎌倉の別荘で長期の闘病後、昭和4年(1929年)に脳出血のため死去しました。享年66(満64歳没)で、生涯独身を貫きました。
墓所は、東京都小平市に在る津田塾大学の構内にあります。
女子英学塾は津田英学塾と改名するも、校舎は後に戦災で失われ、津田塾大学として正式に落成・開校したのは津田梅子さん没後19年目の昭和23年(1948年)のことでした。
津田梅子さんは、大学を作ったということで、真の教育者だったんですね。学校を作るなんて、なかなか真似できることではありませんが、信念をもって何かをやり遂げるという姿勢は見習いたいと思います。
津田梅子さんは6歳でアメリカ留学し教育者への道へ導かれた
津田梅子さんは、津田仙・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区)に生まれました。 父・仙は幕臣であったため、江戸幕府崩壊とともに職を失ったが、明治2年に築地のホテル館へ勤めはじめ、津田家は一家で向島へ移りました。
仙は西洋野菜の栽培なども手がけ、幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしていました。
明治4年、津田梅子さんが6歳の時、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させ、同年、岩倉使節団に随行して5人が渡米しました。
アメリカではジョージタウンで日本弁務館の書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられます。
その後、2人が帰国し、梅子と山川捨松、永井しげが残った。この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する際に二人は助力します。
梅子は再びランマン家に預けられ、十数年を過ごすことになります。梅子は英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通い、日本へ宛てる手紙も英文で書くようになります。
明治11年にはコレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学します。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学びます。
また、ランマン夫妻に連れ添われて休暇には各地を旅行している。明治14年には開拓使から帰国命令が出るが、在学中であった山川捨松と梅子は延長を申請し、明治15年7月に卒業。同年11月には日本へ帰国します。
津田梅子さんは帰国したものの、幼少からの長い留学生活で日本語能力はむしろ通訳が必要なほどになってしまい、日本的風習にも不慣れであった。
明治16年には、外務卿・井上馨の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会し、華族子女を対象にした教育を行う私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介されます。
このころ父・仙との確執もあったことから、梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在、歌子からは日本語を学び、「桃夭女塾」へ英語教師として通うことになります。
明治18年には伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなったのです。
津田梅子さんは華族女学校で3年余り教えていますが、上流階級的気風には馴染めなかったと言われ、この頃には何度か薦められていた縁談も断っています。
やがて梅子は「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と手紙にしたためたほど、日本の結婚観に辟易して生涯未婚を誓います。
明治21年には、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、彼女に薦められて再度の留学を決意し、父の仙の知人で、日本の商業教育に携わっていたウイリアムの娘・クララの仲介で留学希望を伝えて学費免除の承諾を得て、校長の西村茂樹から2年間の留学を許可されて明治22年7月に再び渡米します。
津田梅子さんはフィラデルフィア郊外のブリンマー大学で生物学を専攻し、3年間の課程を切り上げて終了させ、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆します。
津田梅子さんに留学を勧めたアリス・ベーコンは日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていました。ベーコンがアメリカへ帰国し、研究を出版(『日本の女性』)する際には手助けをしています。
これは梅子が日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われており、留学を一年延長すると、梅子は日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行いました。
まず、6歳で留学って考えられないですね。自分の子供だったら6歳の時に渡米させるなんてことはあり得ないことです。
津田梅子さんの凄いところは、いろいろあると思いますが、一言で表すと「バイタリティ」ではないでしょうか。
この行動力は凄いと思います。
そして個人的には、津田梅子さんが英語の教師を始めたころから、教育者への潜在意識が生まれ始めたように思いますね。
でも、津田梅子さんが生物学を専攻していたとは意外ですね。
津田梅子さんの名言
最後に津田梅子さんの代表的な名言を紹介します。
”高い志と熱意を持ち少数だけでなく、より多くの人々との共感を持てれば、どんなに弱い者でも事を成し遂げることができるでしょう”
”環境より学ぶ意志があればいい”
まさに、津田梅子さんが体現した言葉ではないでしょうか。
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